徳川家康(12)
上総守から大納言 右大将となって、名実ともに天下人となった信長から、ついに家康に無理難題がもちかけられてきた。
嫡男信康と正室築山殿の即刻処分である。
信長を仇敵と呼ばわる築山殿、粗暴短慮な振舞いの多い信康ではあるが、これは家康にとってまさに青天の霹靂ともいうべき生涯の驚きであった。
素直に請けるか、一戦を交えるか。
城内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、家康は迷いに迷ったが、自らの判断で二人を裁こうと決意した……。
五層七階の豪壮華麗な天守閣の聳える安土城に、最初の客人として家康を招く。
その接待役を仰せつかった明智光秀は、信長の忌避に触れ、衆人環視の中で言語に絶する侮辱をうけ、中国出兵を命ぜられる。
信長との対面を無事終えた家康は、京に遊び堺で本能寺の変を知る。
急遽帰路を変更した家康は、命からがら伊賀の山中を越えて三河に逃れ着く。
信長歿後の二十日間は、家康にとって、その後の運命を決める大きな転機であった。
大坂に築城して天下に覇を唱えようとする秀吉に対して、信長の子信雄が反旗を翻すと、家康は信長との義によって織田方に味方し、兵を小牧・長久手に進める。
双方とも、相手を滅ぼすことの不利を知って、適当のところで和を講じる。
面子上、秀吉からは家康の二男於義丸(結城秀康)の人質要求がくる。
勝ち戦だとばかり思い込んでいる家康家臣の間では、秀吉何する者ぞとの怒りが渦巻く……。
諸侯列座の大坂城で、何としても家康に頭を下げさせ、その威を天下に誇示したい秀吉は、家康の二男於義丸(秀康)を養子として迎える。
それでもなお足りぬと見るや、妹の朝日姫を無理矢理に離別させて家康に嫁がせ、義兄弟の誼を結ぶことを考える。
その間に立った石川数正の身を捨てての奔走によって、ようやく縁組は成立し秀吉と家康との和解が実現したものの……。
秀吉の妹朝日姫が家康のもとに嫁いできたとき、家康四十五歳、姫は四十四歳であった。
秀吉は家康の上洛を促すために、さらに生母の大政所を人質として岡崎に遣わす。
後事を本多作左衛門に託し、家康は三万の精鋭を率いて上洛。
ここに両雄は義兄弟としての固い契りを結び合う。
後顧の憂いがなくなった秀吉は、十二万の大軍を擁して九州を平定。
残るは小田原の北條父子のみとなったが……。
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